BONUSTRACK1

CHIKADA 
HARUO 
BIOGRPHY

流行にいち早く踊っているうちに、
いつのまにか流行を作る側の人になっている。
そんな軽いノリの重鎮こそが、僕らには必要なんだ。
さあ、新鮮な音楽を作り続けて25年!
天才チカダの人生術を盗め。

偉人伝・近田春夫
あきっぽい巨匠の伝説
取材・文:川勝正幸


厄年過ぎても
ワッチキャップが似合う男。

「浅ヤン」で、ファッションに音楽に鋭いコメントを吐いて、大人気の近田さん。
今年の2月25日でなんと厄年+1の43歳。なのにナゼつぶらな瞳のこのオヤジは、ヒップホップ・ファッションに身を包んでもサマになるのか。
 そう。近田春夫は〈世界で初めてヒップホップをバンドでやったビブラストーン〉のリーダーだからなのだ。例えば、近田さんが作詞・作曲したビブラの古典の一つ、『WABI SABI』。「詫びしさからの逃避は君の住んでる部屋じゃ無理だ」と、〈悪いエネルギーの渦巻く都市に住む人々の怒りや情けなさを絶妙に描いた日本語のラップ〉は聴く者の魂を身につまされる状態にしつつも、〈12人編成のファンキーなバンドが産み出すグルーヴのあるサウンド〉は腰がくいくい動いてしまうというハズカシウレシな二重構造。確かにオリコンの上位をにぎわす音楽とは対局にあるため、ビブラの結成以来の6年越しの目標=東京ドームへの道はまだまだ険しいものの、すでに渋谷ワンマン、渋谷クアトロ4デイズとこなし、ニューヨークやフランス公演も好評経験済み、という感じ。
 しかし、今や音楽もTV活動も順調な近田さんにも悲劇の歴史があった。常に新しい音楽をクリエイトした名誉はゲットしながらも、それがいつも早過ぎたために巨万の富をゲットしそこなう繰り返し(しかも、たまに手を抜いて仕事をすると、ジューシィ・フルーツの『ジェニーはご機嫌ななめ』、ザ・ぼんちの『恋のぼんちシート』のように大ヒットしてしまう人生の皮肉付き!)。そんな数々の挫折を経験しながらも、近田さんがグレずにここまで
やってこれた秘密は何なのだろう。


画家、『アンアン』編集者にあきて、
音楽家への道へ。

「あきやすいってことじゃない? それだけだと思うな。あと、新しいものじゃないとヤだ! っていうことかな。俺は物にしても人間関係にしても、“冷たい人ね”って言われるかもしんないけどさ、あきられた方が悪いと思ってるの。TVに出てくる人なんてあきられたらおしまいじゃん。恋愛もそう。あきられたらあきられただけのことって絶対あるんだよ。だから、あきやすいってのが俺の中で唯一続いてるポリシーかもしれない(笑)」
 れれれ。近田さんが何かというと耳慣れないヘンな、でも面白い音楽をやり続けて来た理由が、“本人のあきっぽさ”にあったとは!「この性格に関しては小学校の頃から自覚してたんだ。俺はこれで一生貫けたらカッコいいなあと思ってた。もちろん、幼心にも不安があったわけよ。このコンセプトで行くと途中でモタなくなるんじゃないか(笑)、って。でも、俺は奇跡を信じようと。まあ、今んとこは何とかなってるかな」
 とはいえ、あきっぽい人って、普通は音楽にしろ何にしろ作品を残せるもんじゃない。
「元々は若いうちはチンピラみたく遊んで、気がついたら何もしないで楽してね、年取ったら偉い人になれてりゃいいなあっていう、漠然とした甘い考えを持ってたのよ。それが高校(慶応)の美術の先生が、入ってすぐの頃かな、俺がパッと描いた絵を天才だ! って誉めてくれたのね。俺自身のことは知らずに、自分が表現した物を見て“この人はすごい”って言ってくれたことが、自分を表現する仕事に向かわせた大きなきっかけだったと思う。でも、絵は2年であきちゃって(笑)」
 たった2年(笑)。そして、70年。高校の終わり頃、近田さんは創刊当時の、今とは違って超・過激なファッション・マガジンだった『アンアン』の編集室に通うようになる。
「スタッフの募集をしてたのよ。すごい応募の数でさ。今のTVの『浅ヤン』以上の人気があった。俺が送った企画書のようなものを椎根さん(現『ハナコ』編集長)が面白がってくれて。ちょうど後に世に出る人が、例えば、横尾忠則が遊びがてら来るような環境でさ。一番色んなことを吸収する時期にクリエイティヴな経験ができたことは、大きかったと思う。そのうち『アンアン』に出入りする音楽関係の知り合いが増えて、ミュージシャンになるんだけど。結局9ヶ月くらいいたかな」
 たった9ヶ月(笑)そして、内田裕也氏やアラン・メイル(ジャズ・シンガー、ヘレン・メリルの息子)との運命的な出会いを経て、71年、近田春夫&ハルヲフォンを結成。


日本で初めてだらけの歴史
という伝説。

以後、音楽道ということでは一本だが、ビブラストーンに至るまでの音楽性の変化は忙しい。チカダハルヲのディスコグラフィは、“日本初だらけの歴史”だからして......。
 ①76年、ハルヲフォンのデビュー・アルバムで、「マネージャーから電話で何してるんだ それで目が覚めて」(『黄色い太陽』と、日本初の業界ソングをクリエイト)
 ②76年ヒットを狙って『ハイ! それまでヨ』の構造をパクったシングル『恋のT.P.O』をレギュラーだった『ギンザNOW』などで演奏。売れなかったが、クレイジー・キャッツ再評価運動としては、日本初(?)。
 ③77年、写真家・小暮徹氏からロンドン直送のパンクを教えられ、オカッパ頭からツンツン・ヘアーへ。しかし、安全ピン替わりに洗濯ばさみをつける和風な消化が祟って、日本初のパンクという支持は得られず。
 ④77年、セカンド『ハルヲフォンレコード』で、郷ひろみの『花とみつばち』(作曲:筒美京平)をカバー。後のひろみブーム、京平先生神格化のハシリとなる。また、郷ひろみの魅力を解くフレーズ、“プラスチック感覚”を歌で見事に表現した『プラスチック・ムーン』もこのLPに収録されていた。
 ⑤77年の『オールナイトニッポン』(火曜2部)、78年の『ポパイ』の連載「THE 歌謡曲」により“歌謡曲評論界の小林秀雄”(©週刊文春)の異名をゲット。近田流歌謡曲評論における「真面目に見ているんだけど、端から見るとちゃかして見てるような、誉められても本人はうれしくないような物の見方」は、『スチュワーデス物語』を経てお茶の間化し、今のTVの『浅ヤン』まで受け継がれている。
 ⑥78年、歌謡曲をパンク・アレンジで演奏したサード・アルバムのタイトルを『電撃的東京』と名づける。このLPとプロモーションにまつわる近田さんの発言により、YMOの『テクノポリス』(79)や沢田研二の『TOKIO』(80)など、後の“外人の目を借りて東京を面白がるブーム”の下地を作る。
 ⑦79年、初のソロ・アルバム『天然の美』で4曲、ブレイク前のYMOを起用する。
 ⑧81年、TBSのTVドラマ『ムー大陸』の夢先案内人へホ役やニッポン放送の『タコ社長のマンモスワイド』の毒蝮三大夫的な役どころなどのタレント活動にあきて、音楽活動専念宣言。若いミュージシャンたちとビブラトーンズを結成。詩は今のラップに近い都市生活者の生活をテーマに、音楽はニュー・ウェイヴ、アフリカ、レゲエなどを使って今までのロックを破壊しつつも、ダンサブルなサウンド、という新しさ。
う~ん、行数が足らない。残りは「近田さんの重要仕事グラフィー」を参照してくれ!


アディダスを求めて
さまよったあの日が、
俺を変えた。

そんなクリエイテイヴなあきっぽさをエネルギーにした近田さんの曲がり道くねくね的な音楽道も、ここ数年はなぜか安定している「俺が一番望む物は、あきない物。それを見つけたい。これだったらあきないだろうと思って行くと、またあきてしまう。物を探すのって手間でしょ。馴れ親しんだ物を捨てて、ゼロから出発しなきゃなんない。それが面白くて新鮮だから、こうやって続いちゃうんだよなあ。本当に因果な性格だなあと思う時がある。ジョン・デンバーをあきずに一生聴く暮らしとかって、楽じゃん。本当はあきるのはヤなわけよ。でも、ヒップホップと出会って以降は、音楽的にはずっとあきてないよね」
 近田さんとヒップホップとの出会いは、85年。34歳の時。ランDMCの『ウォーク・ジス・ウェイ』がヒットする前の年である。
「飯倉片町にさ、オデオンってクラブがあってさ。タイニー・パンクスの二人(ラッパーの高木完とDJの藤原ヒロシ)がアディダスのジャージの上下に、ヒモなしのスーパースターを履いていたのよ。うん。カンゴール(ハット)もかぶってたかな。素直にその格好が俺の価値観をくつがえしたんだ。それから探したもん、アディダスもんを。ちょうど下火な時期だったからさあ、神田から恵比寿のスポーツ屋まで。昔からファッションと連動した音楽が色気があって好きだったからね。ヒップホップがすごいってことに気がついた。これからの音楽の美意識が絶対入れ替わるってことが一瞬にして見えたの。あの瞬間があったから、十何年も待ってるんだと思う、俺」
 30半ばのオヤジが自分より一回りも下の若者のファッションに負けないために、東京を走り回る。これってなかなかできることじゃない。しかも、ファッションだけではなく、ヒップホップは非ミュージシャンであるDJがレコードとターンテーブルとミキサーを楽器代わりにして作るという音楽そのものの構造が今までとは大違い。近田さんは豊富なミュージシャン経験をいったんは捨てて、86年、プレジデントBPMという名のラーッパーとして、DJをバックに堂々再デビューする。
「ところが、どうしてもレコードを使って音楽を作るっていう同じ土俵だとさ、ニューヨークなどでがんばってるヒップホップの連中にかなわないわけよ。それじゃツマンナイからさ、プレジデントBPMは2年であきて(笑)。バンド全員が音楽の作り手でありながら、DJやミキサーみたいな聞き手でもある、ポスト・ヒップホップ・バンドってのを考えたわけ。これなら、今までの音楽経験を生かしながら、新しい音楽が作れるわけじゃん」
 また、たった2年(笑)。しかし、近田さんが音楽生活20周年目にしてたどり着いたバンドと言われる、ビブラストーンだけは7年も続いている。とはいえ、またそろそろ“あき症の虫”がうづいたりしているということはないのか。
「最近はね、時間があったら詞や曲を書いてるわけ。でね、一番新しく作った曲が今まで一番いい曲になるようにがんばればさ、俺もバンドのメンバーも決してあきないと思うわけよ。これはちょっと無理かな?っていう、可能な限り厳しいところに目標を設定して、飛び超す。それが毎日のように続けばさ、東京ドームでやるってのもギャグじゃない。だから、今年の目標は奇跡を起こすことなんだ」


近田さんの重要仕事グラフィー  ★ビブラストーン結成以前


1975

幻のハルヲフォンのデビュー・シングル『ファンキー・ダッコNO.1』。ジャケに全国ディスコ協会推薦とあるファンキーなナンバー。今なお新鮮なグルーヴがあるのが凄い。

1976

近田さんがリーダーになった初のバンド、ハルオフォンの公のファースト・シングル『シンデレラ』。東京の特権的な遊び人たちの色気ある世界がシュールな歌詞で描かれている。

1976

ハルヲフォンのファースト・アルバム『カモン・レッツ・ゴー』。ディックの小説と共通する明るい絶望感をTレックスに影響を受けたロックに乗せて歌った日本のロックの金字塔。

1977

ロンドン・パンクへの日本からの解答がこの2枚目のアルバム『ハルヲフォンレコード』。人工的なロックンロールこそが東京的なパンク・ロックであるという予見に満ちた作品。

1977

ムーディーな前半からイキナリC調な後半になる企画物シングル『恋のT.P.O』。この時代、クレイジー・キャッツの引用を楽しむ余裕のあるリスナーはあまり数がいなかった。

1977

近田さんがマキシム・リスペクトする筒美京平ワールドに挑戦したソロ・シングル『ロキシーの夜』。疑似歌謡曲という実験的な試みが理解されるには、さらに時間がかかった。

1978

近田さんのタレントとしてのブレイク+歌謡曲をパンク・アレンジしたわかりやすい新しさがウケて、話題となった『電撃的東京』。このLPが歌謡曲評論&東京ブームを産む。

1978

『きりきり舞い』のシングル・ヴァージョンは、ビージーズの『サタデーナイト・フィーバー』を意識したディスコもの。エンディングの長めのブレイク・ビーツは今も使えるぞ。

1979

近田さんが歌手になりきって作った疑似歌謡曲アルバム『天然の美』。楳図かずお氏作詞にとる『エレクトリック・ラブ・ストーリー』はサイバーパンクの世界を先取りしていた。

1979

巻上公一氏をはじめとする若者たちの才能をいちはやく認めた近田さんがプロデュースしたテクノ・ポップ・バンド、ヒカシューのデビュー・シングル『二十世紀の終わりに』。

1979

地方営業先で一晩で作曲したといわれる『エレクトリック・ラブ・ストーリー』の薄味版『ああ、レディーハリケーン』だが、資生堂のCMソングとしてお茶の間によく流れた。

1979

近田さんの今のところワン&オンリーのタレント本『気分は歌謡曲』(雄山閣)。とはいえ、すべて自分で書いた歌謡曲論が中心。79年に出たものだが、日本人の音楽観についての考察は今も古びていない。

1980

近田さんが作曲&プロデュースしたテクノ・ポップ・バンド、ジューシィー・フルーツの大ヒット曲『ジェニーはご機嫌ななめ』。『ハルヲフォンレコード』の甘口版とは、本人談。

1980

『星くず兄弟の伝説』。ピンクレディーの没落、省エネ・ブームなどをテーマにした批評精神が詰まった近田さん最後のロック・アルバム。ジャケは女性週刊誌の表紙のパロディ。

1981

THE MANZAIブームの最中、大ヒットしたザ・ぼんちの『恋のぼんちシート』。作詞・作曲が近田さんで、編曲は鈴木慶一氏。写真は、LP『THE BONCHI CLUB』。

1981

近田春夫&ビブラトーンズの最初のシングル『金曜日の天使』。「終電車だって、おわっちまっただ」と繰り返されるディスコ人生ソングは、今の若い人のがピッタリくるかも。

1982

近田さんが平山みきさんの『真夏の出来事』がレトロ・ヒットする直前にプロデュース&作詞した『鬼ケ島』。弟の受験の話など歌になりにくい生活を詞にしたのは森高より早かった。

1982

ビブラトーンズの4曲入り45回転12インチ・シングル『バイブラ・ロック』。中学生の性生活を歌ったダンス・ミュージック『恋のバンダナ』など、ブルセラ時代にも通用しそう。

1983

ヴァイヴとウッドベースとシンセのトリオが、今流行りのサントラやイージー・リスニングを演奏するゲートボール。10年早かった。写真はカセット『スマートなゲートボール』。

1985

架空のサントラとして作った『星くず〜』を5年後、近田さんは自ら製作総指揮となって映画化した。監督は手塚真氏。自主製作映画のハシリ一つ。写真はその映画のサントラ。

1986

プレジデントBPMの初の12インチ『マスコミュニケーション・ブレイクダウン』。日本語で物を考える人たちのために日本のリアルな現実を日本語でラップした記念碑的作品。

1986

ビブラストーンの演奏ナンバーとして今なおフレッシュな、プレジデントBPM『ナスーキュウリ』。日本初のドラッグ・ラップして、『一本でもニンジン』以来の野菜ソング?

1987

これまたビブラストーンの演奏ナンバーとしておなじみの、プレジデントBPM『Hoo! Ei! Ho!』。「〜さ」の脚韻による日本語ラップのスタイルを確率した。日本初の時事ネタ・ラップ。

1987

プレジデントBPM周辺の作品を集めたアルバム『ヘヴィー』。細野晴臣氏が若者にカツを入れ老後問題をラップする『カムバック』など、今なお有効なユーモアあるラップ多し。